難しい年頃?になってきたのかなァ。廃村の握津地区レポート その2

投票所は家から150メートルほどの中学校体育館
★難しい年頃?になってきたのかなァ
今日は埼玉県知事選の投票日だ。
朝一番、家内と孫娘二人をつれて4人で行った。
投票所は歩いて数分。
距離にして150メートルほどの中学校体育館だ。
そのあと狭山に住む家内と共通の知人の家に行くことになっている。
二人の孫娘もつれていくつもりだったのだが・・。
4歳になるほうが行かないと言い出した。
ママと一緒に家にいるというのだ。
「○○ちゃん、一緒に行こうよ。
美味しいもの食べさせてあげるし、
帰りに子供動物園にも行ってあげる。
ウサギさんもいるし、楽しいよ」
いくら誘っても行かないといいはる。
すると、小学2年のほうも
孫娘××「あたしも行かない。
おうちで宿題やっている」
どちらも、言い出したらきかないのだ。
年中けんかばかりしているのに、
今日はやけに気が合うなァ。
いままで素直についてきたのに・・・。
どうやら難しい年頃?なってきたのかなァ。

握津地区は廃村となったが田畑は元の住民によって耕作され続けている
★郷土史同好會 廃村の握津地区レポート その2
子供たちは河川敷内の道路を歩いて行く。
小学校のある川越市へ渡るための上江橋は1600メートルもの長さだ。
大人でも歩いて渡るのは容易ではない。
A氏「学校までの距離は片道5キロありました。
冬など川を渡るのは難儀ですよ。
朝、子供たちが集まるとしばらく焚き火に当たり、
温まったところで、そのまま走って小学校まで行っちゃうんです。
そのせいでしょうか、
この地区の子たちは脚が速いと言われてたですね。」
握津で12代目、
自身も70年暮らしてきたというAさんはそのように話す。
※
握津地区を管轄する川越市古谷公民館から
“忘れてならない 移転前の握津を歩く”
と川越歴史散歩の会作成の資料“忘れてならない握津”
というレポート(コピー)を入手した。
握津地区を知るにはこの上ない資料だ。
A氏の証言を交えながら、
このレポートを追ってみたい。
“忘れてならない握津”では
まず、握津(あくつ)の地名について述べている。
・多くは川沿いで低い平地をいう『日本国語大辞典』
・水澤に因みて出でし名なるべし『大日本地名辞書』
地名からして水に縁があることが伺える。
握津地区は洪水に悩まされてきた歴史でもあるのだ。
明治43年(1910年)には未曾有の大洪水に見舞われ、
翌年から荒川の改修工事が始まる。
少し長くなるが、
A氏に洪水の思い出を語ってもらった。
A氏「自分の中では昭和16年の洪水がいちばん大きかったね。
床上3尺まで水に浸かった。
そのときの洪水で、強制移住させられた家もあったが、
国からの補助金はわずかだったと聞いている。
もちろん、国は土地も買い上げることもしなかった。
昭和33年の洪水の時には蚕を流してしまった。
この辺りの農家がまだ蚕をやっていた頃だ。
水は床上30センチまできた
昭和43年の洪水もひどかったね。
このときはゴルフ場が水に浸かった。
最近では平成11年の洪水が床上25センチまできて大きかった。
荷物を2階に上げたが、間に合わぬものもあった。
畳が水で持ち上がってしまうのだ。
一旦、水を吸った畳は水が引いても重くて持ち上げることが出来ない。
停電も起こった。
納屋に置いてあった買ったばかりの新しい農機具もパーだ。
上流に二瀬ダムと浦山ダムができた当初は、
洪水が減ったようで喜んだものが、
そのうちにダムが満杯になると放流を始めたのか、
却って増えたように思えたなァ」
以下次回
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